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直葬・火葬式

家族葬、とりわけ無宗教で葬儀をあげたあとのご遺骨の行先

コラム家族葬 2019/02/16

私たちは、死んでいくときに多くの痕跡を残していきます。
「死んだらそれで終わり」「葬儀を行えばそれで終わり」と考える人もいますが、実際には「故人が使っていた部屋の掃除や家の処分」も必要ですし、本人もまた「ご遺骨」というかたちで残ることになります。

今回は、この「ご遺骨」について見ていきます。

「簡素にしたいから家族葬で」というときに注意したいこと

家族葬を行う理由はさまざまです。
経済的な理由によるもの、故人や家族の宗教観や葬送儀礼に対する思いによるもの、故人も喪主も非常に高齢で一般葬をあげてもおそらく弔問客が少ないであろうから寂しいので家族葬を選択するというもの……。

また、これらの「どれかひとつ」だけが理由ではなく、さまざまな理由が複雑に絡んで家族葬を選択する場合もあるでしょう。

葬儀のかたちに、決まりや正解はありません。家族葬でも一般葬でも構いませんし、またそれを行う理由にも正否はありません。
ただ、「簡素にしたいから」という理由で家族葬を選択する場合は注意が必要です。

家族葬でも、「宗教者(以下は「仏教」を想定)を呼んで葬儀を行う。火葬後のご遺骨は、先祖代々のお墓に入る」という場合は、ご遺骨の処遇はそれほど問題にはなりません。菩提寺の僧侶を呼んでお経を上げてもらい、そのお寺の墓地に入るわけですから、一般的な葬儀のときと同じ流れをとることになります。

しかし、「火葬式で送る」ということで僧侶を呼ばない場合や、「この機会に檀家を辞める」「僧侶と折り合いが悪いし、お布施の費用も高い。派遣の僧侶に依頼する」とした場合などは、ご遺骨の処遇を一考する必要があります。

このような形態でお見送りをしたケースでは、菩提寺の方から納骨を断られる可能性が生じます。また、納骨ができるかどうかの話し合いで摩耗する人もいるでしょう。

また、ずっとお世話になっている菩提寺のお墓というのは、安住の地であることはたしかです。

ただ、「葬儀」というのは本来自由であるべきものです。
「無宗教の葬儀を行いたい」「檀家であることを辞めたい」「そもそも菩提寺がどこかわからない」ということで、僧侶を呼ばずに葬儀を行うケースもあるでしょう。特に、一般葬に比べてコンパクトに行う「家族葬」ではその可能性は高くなります。

無宗教の葬儀や僧侶を呼ばない葬儀を考えているのであれば、「葬儀を終えた後のご遺骨の処遇」も合わせて考えておきましょう。こうすることで、より自由な葬儀、より自由な家族葬を組み立てやすくなります。「ほかの処遇も考えたが、やはり菩提寺のお墓に入れたい」と思うのであれば、僧侶を呼んで行う葬儀を行うつもりでいればよいのです。

ご遺骨の行先その1~樹木葬や海洋葬

現在広く知れ渡ってきているのが、「樹木葬」「海洋葬」です。

さまざまな種類・さまざまなやり方がありますが、樹木葬というのは公園墓地などでシンボルツリーの下にご遺骨を埋めて弔う方法です。お花の下に納める場合もあります。

海洋葬は、フェリーなどで海に出て、そこにご遺骨を撒く方法をいいます。なお、この手段をとる場合は、ご遺骨は細かく砕いておく必要があります。

「大自然に抱かれて眠ること」が可能なこの方法は、近年とみに注目を浴びているものです。
ただ、海洋葬では当然のことながらご遺骨を再度手にすることはできませんし、樹木葬の場合も極めて難しいといえます。

ご遺骨の行先その2~納骨堂や宗教を問わない霊園を利用する

納骨堂や、宗教を問わない墓地を利用するのもひとつの方法です。民間の業者が行う納骨堂は宗教・宗派を問わないところが圧倒的多数ですし、霊園でも同じようなスタンスを出しているところが多くみられます。

樹木葬や海洋葬とは異なり、「お墓」「(納骨堂の場合は)ロッカー」などのように、「ご遺骨を納める場所」が明確に用意されているのが特徴です。
金額についてはばらつきが非常に大きいので、比較検討をしていくことを強くおすすめします。

ご遺骨の行先その3~手元で供養し続ける

意外に盲点となるところなのですが、ご遺骨は「○日までに、特定の場所に納めなければならない」というものではありません。仏教では四十九日や一周忌を目途として納骨を行うケースが多く見られますが、これも法律で決まっているわけではないのです。

そのため、「ずっと手元において、毎日手を合わせて供養し続ける」という選択肢をとることも可能です。

しばしば、「納骨をしないと故人が浮かばれない」などと言ってご家族を不安にさせる人もいますが、納骨をするかしないか、するとしたらどのタイミングでするかは遺されたご家族の判断に委ねられます。

この手元供養は、「ご遺骨の行き場所を決められないから行っていくもの」という性質も確かに持ちますが、「離れがたいからずっと一緒にいたい」といった願いから行われることもあります。

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